2011年8月2日火曜日

逆フラッシュバックと「痛い!寒い!ワーイ!」

先日、メキシカンレストランで、仲良しの友人2人と食事をしていた時のこと。

Mちゃん(10数年来の親友)が「赤毛のアンの舞台ってどこだっけ?あそこにねえ、行ってみたくてしょうがないんだ。...ね、年を取ったらみんなであそこに家を買って、好きな時に住むっていうのはどう?」

私「プリンス・エドワード島!私も赤毛のアン大好きで、何度も読んだよ。いいね、みんなで住もうか。まあ、70才くらいになったらね。」

Mちゃん「あなたのトレーニングルームもちゃんと作るからね!」

Kくん 「...俺、そんなおじいさんになってもまだ食い続けなきゃいけないのかよっ...!!」(Kくんは食べる事が職業の特殊なアスリートなのです)

一同、一瞬その図を想像して沈黙の後、大笑いしました。

と同時に、一瞬みんなの「老後」に思いを飛ばしていた私は、その未来の地点から「いまの自分たち」を振り返ってみて、懐かしくて胸が締め付けられるという妙な感覚を覚えました。

「みんな、若かったね...」と。

 この感覚は実は初めてではなく、確か高校1年のお正月に、友人達と初詣などをした帰り道の渋谷から実家へ帰るバスの中で、それから友人と居酒屋などでたわいも無い会話をしている時に、あるいは恋に落ちてしまった時なんかに、ふと感じてきました。未来から「いま」を振り返って見る、「逆フラッシュバック」とでも言うのでしょうか。。


私は18才の時にも1年間NYへ留学していたのですが、当時、5、6つ年上の彼氏がいて、彼の精神年齢はともかく...色んなことを私よりも知っている(...ように見えた)という点で当時は夢中になっていました。そして、「ナニナニっていう芸能人が好きって言ってたけど、私全然にてない...」などと、今では信じられないクッダラナイことで毎日ヤキモキしたりしていました。

ある日、日本から彼の友人カップルが遊びに来た時の事。その2人は、彼女がちょうど今の私くらいの年〜32、3才で「恋愛にこなれた感じの素敵なお姉さん」、彼氏は25才くらいで「年にしては落ち着いている」というカップルでした。
男性陣が近所に出かけて行って、彼女と2人きりになった瞬間、私はその大人びたお姉さまに今だ!とばかりに質問を浴びせかけました。
「彼氏もモテそうなのに、どうしたらそんなに落ち着いていられるんですか?不安とかはないのですか?私もう、ヤキモキするの嫌なんです。どうか平静でいられる秘訣を教えて下さい!」と。
 その時に彼女が放った一言が忘れられません。

「えみこちゃん、私はね、男は浮気したり、常に遊びたい生き物だと思うのよ。だから◯◯◯(彼氏の名前)が私に隠れて浮気したり、風俗に行ってるのも知ってるけど、全然なんとも思わないわ。えみこちゃんもそういうスタンスでつきあって行けば、だんだん平気に、なんでも許せるようになっちゃうわよ。」

私は頭の中がパッと真っ白になり、クラっとし、同時に凄い嫌悪感がゾワゾワと沸き起こりました。

「この人は、カッコいい女だと思っていたけど、カッコ悪い。」と思いました。
「そんな、伸びきったパンツのゴムひもみたいにユルい女になるくらいなら、疲れるけどまだヤキモキした方がいいわい!」というセリフも心の中で叫んでいました。
本当に、自分の好きな人が浮気したり自分以外の人に触っても、悲しくならないの?そこがまず、解りませんでした。今となれば、この彼女も、そういうスタンスでいることがカッコいいと思っている人だっただけで、心の中では色々と辛かったんだろうな、と思えますが。
 
まあ、そういうならばと、必殺・逆フラッシュバックを用いて32才になった自分の視点から18才の自分を振り返ってみましたが、その時想像した32才の私も、「この人の言う事は鵜呑みにしちゃ駄目」と言っていました。

私は自分がヤキモキしたりする事からは「解放」はされたかったけど(疲れるし、そんな自分がイヤだから)、自分の本当の感情に嘘を付いたり、見て見ぬ振りをする事で、感情を「鈍らせること/鈍いフリをすること」が方法の一つだとは、考えてもいませんでした。そんなものが「大人の恋愛」なら、そしてそれがクールとされるなら、この世は終わってるな、とも。

その時に、「私は今18だけど、今感じている全ての感情は、きっと年を取ってから振り返ればそりゃ子供じみているだろうし、間違っているかもしれない。でも、無理して背伸びして、達観したようなフリをするのはやめよう。」と決めました。「痛みを麻痺させる麻酔薬があればそりゃあ楽だけど、そんなつまらない人生はごめんだ。」と。

それから10数年、その時の「お姉さま」の年になり、18才だった当時、恋愛に限らず複雑にもつれていた感情の糸は大方解きほぐされ、シンプルになり、生きるのが随分と楽になりました。そして重要なのは、それが汚水も濁水も清水も含めて、時間をかけてろ過されて純水になったゆえの「シンプル」であって、決してもとから純水(or 純粋)だったワケではないこと、心を誤摩化したり鈍らせたりのズルはせずに成し得たことだということ、です。
(そう考えると、年を取れば取る程、清濁合わさった果てのピュアになる、という現象も、納得がいきます。)

それはただ単に、バカみたいに、悲しい事や辛い事と取っ組み合ったり(避けたかったけど、向こうからやって来るもんですから...)、泣いたり笑ったり飛び跳ねたりボーッとしたり、毎日毎日、喜怒哀楽をただただ感じていた、というだけですが。誰もがやっていることですね。結局これからも、ズルや回り道は出来なくて、その方法しかないのかな、やれやれ、長くてしんどい道だな、とは思いますが。

「ベルリン・天使の詩」という映画の中で、人間になりたい天使が「永遠の命」を代償に人間になる場面があります。大学の授業で見たのが最後なので不確かな記憶ですが、たしか、人間になった瞬間、「痛い!寒い!ワーイ!」と言って狂喜乱舞していた気がします。(ほんとにそんな映画だっけ...間違ってたらごめんなさい。。)

永遠の命と引き換えにしても、「感覚、感情」があって、痛さでも寒さでも、それを「感じられる」ということがどれだけ幸せなことか、という考え方もあるんだということを、この時知りました。

この映画を観たのもまた、エミコ、18才の夏でした。


追記:
死後から「今」に逆フラッシュバックしてみれば、「いやー、あン時はどん底で痛くて辛かったけど、雲の上で何にも感じない今よりは面白かったなー。」と思うかも知れません。
そういえば、三池崇史監督の「13人の刺客」という映画の中でも、稲垣吾郎演じる暴君が、斬られて、死の間際に痛みを感じることで初めて「生」を実感するシーンが印象的でした。

5 件のコメント:

mysweetkitchen さんのコメント...

CREAMY EMIさま、

BROOKLYN在住の方のブログということで、度々拝見しておりましたが、今回初めてコメントさせて頂いています。

というのも、ばっちり共感してしまったからです。

内容から察するに私はきっとCREAMY EMIさんと同じくらいの年齢になると思うのですが。

痛い思いをして、傷ついて、真剣にどうにかしたいと思って、頭ではわかっていてもなかなかできないことというのは、あーでもない、こーでもないと、時間をかけて失敗してたくさん遠回りしながら、ある時ふっと「あ、これだった」と気付くものなのかな、と。。

傷は自分の物語を作る入り口、と言います。受け入れる、ということだけでも一苦労ですが、きっとそこから全ては始まるのかな、と思いました。

いつも読み応えのある日記、これからも楽しみにしています。

creamy emi さんのコメント...

umiさま、

コメント頂きまして、ありがとうございます。いつも気の向くままに思いついた事を書き連ねておりますので、どなたに読んで頂いているのか見当がつかないのですが、こうしてコメントを頂けると、とても張り合いが出ます☆

umiさんもブルックリンご在住なのでしょうか?


傷は自分の物語を作る入り口、と言うんですね。傷の色や形、癒え方も十人十色だからこそ、私は人と出会ってその人の物語を聞くのが好きなのかもしれません。(主に居酒屋などで..)

これからもよろしくお願いいたします!

匿名 さんのコメント...

18歳のエミコに共感しました。

匿名 さんのコメント...

creamy emi様

上記投稿、名乗りそびれました。
と言いつつ今回も匿名ですが。。

M

creamy emi さんのコメント...

Mさま、コメントありがとうございます。
こうして、昔書いた記事を読み返してみますと、本質的な部分は変わっていないんだな〜、ということに気付かされます。
36歳になったエミコより
(只今、50歳くらいから逆フラッシュバック中、、、)